1.はじめに
日本では古来から養蚕が盛んでした。
明治初期から昭和にかけては、絹の生糸や織物の輸出が国家の財政を支えて
いました。しかし、現在、日本の養蚕は絶滅寸前の状態にあります。
養蚕は日本の各地で行われましたが、特に盛んだったのは群馬県だったよ
うです。その群馬県でも養蚕が途絶えようとしていますが、過去の養蚕文化
についての熱い想いが高まっています。
それは「世界遺産」への登録の期待です。
「富岡製糸場と絹産業遺産群」が、世界遺産候補としてユネスコの暫定候補
に挙げられているためです。
2.群馬の絹産業
群馬県では絹産業が重要視されていました。

その様子を「上毛かるた」で追ってみま
しょう。「上毛かるた」(じょうもうかる
た)は、昭和22年(1947年)に発行、
された郷土かるたです。
←つ:つる舞う形の群馬県
(つるまうかたちの ぐんまけん)
上毛かるたの札は44枚です。
その中から絹に関係するものを拾ってみると、5枚(約1割)ありました。
ま:繭と生糸は日本一 (まゆときいとは にほんいち)
け:県都前橋生糸の市 (けんとまえばし いとのまち)
き:桐生は日本の機どころ(きりゅうは にほんの はたどころ)
め:銘仙織出す伊勢崎市 (めいせんおりだす いせさきし)
に:日本で最初の富岡製糸
(にほんでさいしょの とみおかせいし)
この富岡製糸は、世界遺産登録が期待
されている中心的施設です。
このように、養蚕⇒製糸⇒織物と続く一連の生産過程にわたり、群馬では
一貫して注力されていた様子がご理解いただけるかと思います。
ところで、日本における養蚕はどう推移しているのでしょうか。
昭和初期(昭和5年:1930年)には繭の生産量が39万9千トンに達し、
養蚕農家は全国平均で全農家の約4割に達したそうです。特に群馬、長野、
山梨では、農家の7割が養蚕農家で占められていたそうです。(米作に適し
た平地の少ない地域が養蚕に取り組んだのだろうと思います)
現在はどうなのか。平成11年(1999年)と平成20年(2008年)
の養蚕農家数と収繭量の概要は次の通りです。(農林水産省が2009年4
月に公表した統計の一部を抜粋)
地 域 | 平成11年 | 平成20年 | 平成11年 | 平成20年 |
東北 | 677 | 190 | 283.6 | 81.9 |
(福島) | 369 | 104 | 160.2 | 51.3 |
関東 | 2,690 | 716 | 1,024.1 | 226.0 |
(群馬) | 1,560 | 417 | 623.0 | 161.2 |
(埼玉) | 341 | 97 | 122.2 | 32.8 |
全国計 | 4,030 | 1,021 | 1,496.0 | 381.8 |
養蚕は絶滅寸前ながら、群馬は農家数と収繭量でいまだに第1位(全国の
約40%)を保持しています。養蚕農家数は毎年10%以上減少しているそ
うで、2011年現在は全国でおよそ700戸余りかと推測されます。
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今年(2011年)5月、群馬の
実家へ帰省したとき、絹に関連する
施設を少し訪ねてみました。
訪問先の施設名は後述しますが、
場所としては富岡、前橋、高崎、桐
生、渋川の各市です。
世界遺産候補としては、富岡製糸
場
●の他に、
△1〜
△9の文化財計
10点が挙げられています。
今回、1〜9は訪問していません。
1〜9の文化財は次の通りです。
1:薄根(うすね)の大クワ(沼田市)
2:荒船(あらふね)風穴(下仁
田町)
3:東谷(あずまや)風穴(中之条町)
4:高山(たかやま)社
跡(藤岡市)
5:富沢家住宅(中之条町)
6:赤岩地区養蚕農家群(六
合(くに)村)
7:旧甘楽(かんら)社小幡(おばた)組倉庫(甘楽町)
8:碓氷峠鉄道施設(安中市)
9:旧上野(こうずけ)鉄道関連施設(藤岡市)
********** 2014年6月追記 **********
(当初の推薦候補を絞り込んだ下記内容で世界遺産に登録されました)
世界遺産:富岡製糸場と絹産業遺産群
1.富岡製糸場(富岡市) 2.田島弥平旧宅(伊勢崎市)
3.高山社跡(藤岡市) 4.荒船風穴(下仁田町)
********************************
3.富岡製糸場
最初に訪ねたのは、世界遺産登録が期待されている富岡製糸場です。
製糸場とは、繭から糸を引き出して生糸にする作業場です。
まずは全体の概要を見ることにします。私は上から眺めるのが好きなので、
今回も思い切って飛行機をチャーターしてみました。(..という言葉を信
じてくれる人がいるでしょうか?)
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(写真右が北、左が南)
A:正門
B:東繭倉庫
C:西繭倉庫
D:繰糸場
←富岡製糸場
(同所の案内板から)
↓富岡製糸場の錦絵 (同所の案内板から)
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官営富岡製糸場は明治5年(1872年)に設立されました。
敷地は東西約200メートル、南北約300メートルで、面積は約5万4千
平米あります。繭を保管するための東西の繭倉庫は2階建ての木骨煉瓦造り
です。フランス人の設計に基づき日本人が建築したそうです。明治初期の建
築がそのまま現在まで残っています。
東繭倉庫と西繭倉庫の長さは各104メートル、両倉庫に近接する繰糸場
の長さは140メートルだそうです。
(ちなみに、世界一長い木造建築の三十三間堂(京都)は約130メートル)
このように長大な倉庫が造られたのは、当時養蚕は年1回だけだったそうで、
1年分の繭を保管する必要があったためです。養蚕を年3−4回行えるよう
にした技術革新については後述します。
←東繭倉庫
↓西繭倉庫
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蚕は糸を1,500メートル位吐き出してひとつの繭を作るそうです。
熱湯で煮沸した繭から糸を一本一本引出し、数本まとめて巻き上げて生糸に
する作業場が繰糸場です。
←繰糸場外観
↓
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柱のない建物の中に製糸機がずらりと並んでいたのは壮観でした。
←開業当時の錦絵
(ジパング倶楽部2010年8月号から)
↓繰糸場内部
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明治政府は近代的な機械製糸場の建設を急ぎました。
当時、フランス、イタリアを中心とするヨーロッパの養蚕は蚕の病気(微粒
子病)の蔓延で壊滅状態にあり、日本からの生糸の輸出が急増しながらも、
品質が安定していなかった、という事情によるものです。
富岡製糸場の建設にはフランスから技術指導を受け、製糸作業もフランス
人の女性指導者を招いたそうです。
←ベランダ付き女工館
(フランス人女性教師用)
↓工女の宿舎
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製糸作業には多数の工女が携わりました。
当初、300人以上もの工女を集めるのが大変で、全国から良家や士族の娘
が派遣されたそうです。当時としては労働条件が格段に良く、いわゆる女工
哀史などで語られる悲惨な状態ではなかったようです。
←ブリュナ館(フランス人指導者宅)
↓診療所
←敷地の崖下を流れる鏑川
↓黄砂に霞んだ妙義山
4.蚕糸記念館
前橋市の市街地北部、利根川沿いに県立敷島公園があります。
大きな松が3,000本近く並び、各種のスポーツ施設が揃っている公園で
す。この公園の外れに市立バラ園があり、その一角に蚕糸記念館が松に囲ま
れています。ここは駐車場、バラ園、記念館ともに入場無料でした。
←バラ園
↓蚕糸記念館
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この記念館は、明治44年(1911年)に国立原蚕種製造所前橋支所の
本館として建てられたものを前橋市が払い下げを受け、移築したそうです。
この建物の文化財としての名称は「旧蚕糸試験場事務棟」となっています。
原蚕種製造所は筑波学園都市に移転したそうです。
館内には養蚕、製糸に関する用具や機械などが展示されていました。
←各種の用具、機械類
↓
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前橋は江戸時代から繭、生糸の集散地で、製糸の町として発展してきたそ
うです。富岡製糸場の設立に先立つこと2年半の明治3年(1870年)、
イタリア製の器械を導入した前橋藩営器械製糸所が創設されました。これは
日本における初めての器械製糸だったそうです。
5.日本絹の里
日本絹の里は群馬県立の施設です。
前橋市の蚕糸記念館から5キロ位西方の、前橋との境界に近い高崎市にあり
ました。
←敷地のゆったりした日本絹の里
↓
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ここでは絹に関する各種の展示以外に、機織り(はたおり)体験、染織体
験のコーナーがあります。「機織りを1時間したら何センチ位織れるもので
すか」と尋ねたところ、一般の素人さんで5センチ位でしょう、ということ
でした。
←群馬特産の繭
↓機織り体験コーナー
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展示室の入り口近くに、内裏雛が展示されていました。
今上天皇・皇后両陛下が即位の礼の際に着用された衣装を内裏雛で再現した
そうです。写真には色彩がうまく写っていませんが、緑と赤が鮮やかでした。
緑色蛍光絹糸と赤色蛍光絹糸が使われており、遺伝子組み換えの蚕の繭から
作られたそうです。
←絹の衣装を纏った内裏雛
↓
6.織物参考館
群馬県で絹織物の主な産地としては、桐生と伊勢崎が挙げられます。
特に、桐生は京都の西陣と並ぶ高級織物(桐生織)の産地として有名です。
古くは奈良時代から、絹織物の名産地として知られたそうです。
714年(和銅7年)に、上毛が絹織物を朝廷に献上したことが東大寺献物
帳に記されているそうです。
「織物参考館 紫(ゆかり)」では桐生の織物の歴史を体感できるとのこ
とでした。ところが、この度の震災の被害を受け、建物を補修していたので
見学できませんでした。
←屋根を青いシートで覆った参考館
↓敷地内の鋸屋根の工場
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織物参考館は古い建物だったのでしょう。
受付奥にあった「学習室」の入口には、昔を偲ばせる電燈が残っていました。
←補修中の参考館
↓学習室
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織物参考館の近くに。木造ののこぎり屋根の工場がありました。
近づくにつれ、カッチャンカッチャンという機械の音が聞こえてきました。
創業140年の「後藤」という会社で、立派な門構えの敷地内に工場があり
ました。のこぎり屋根は、北窓から自然光を入れるための工夫だったようで
す。(ちなみに、真珠の加工場でも北側の窓から採光しているはずです)
←南東から見た工場
↓北西から見た工場
7.蚕養神社
渋川市に「北橘歴史民俗博物館」があります。
この近くで発掘された4千5百年前の火炎土器を、一昨年の春に見学して大
変感動したものでした。その年の秋、代表的な土器が大英博物館でも展示さ
れ、ロンドンの友人も感激していました。
この博物館の近くに養蚕を祀る神社があるとのことでした。
博物館を訪ねると、館長さんが地図のコピーをとって大変親切に説明してく
ださいました。目指す神社は博物館から2キロ位東にありました。
←北橘歴史民俗博物館
↓赤城神社
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村社赤城神社の脇に小さな朱塗りの社が見えました。
神社の名前は「蚕養神社」(こがいじんじゃ)だそうです。表示板に神社の
由来が書かれていました。茨城県日立市にある「蚕養神社」にこの地区の代
表者が毎年詣でていましたが、昭和30年代になってから分霊を祀るように
なったのだそうです。なぜか「日本最初蚕養神社」と呼んでいるようです。
←ゲートボール場の奥に蚕養神社
(向かって左に赤城神社)
↓蚕養神社
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「蚕養」を「こがい」と読むのは知りませんでした。
それで思い出したのは子供の頃の記憶です。養蚕は春、夏、秋の3、4回行
いますが、それぞれ「ハルゴ」「ナツゴ」「アキゴ」と呼んでいました。
あれは「春蚕」「夏蚕」「秋蚕」と書いていたのだろうと思いつきました。
案の定、広辞苑を開いてみたら、3語とも載っていました。
8.絹の道
産業に物流手段の整備は欠かせません。
農家で生産した繭は製糸工場へ、生糸は織物工場や輸出港へ運ばれます。
群馬には絹産業に関連した物流の遺産が残っています。
群馬に隣接する長野県も養蚕や織物が盛んでした。
明治18年(1885年)には高崎−横浜間が鉄道で結ばれましたが、群馬
−長野間の交通には難点がありました。両県の交通の難所は勾配の急な碓氷
峠でした。そこで明治26年(1893年)、アプト式の碓氷線が横川−軽
井沢間で開通しました。
また、明治30年(1897年)には、繭、生糸、蚕種を輸送するため、
高崎−下仁田間の上野(こうづけ)鉄道が開通しました。
(以下、表題の先頭に*をつけた写真は、群馬県発行のパンフレット
「富岡製糸場と絹産業遺産群」から引用させていただきました)
←*碓氷峠めがね橋
↓*旧上野鉄道関連施設
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少し遅れて昭和3年(1928年)には上毛鉄道が敷設されました。
赤城山を北に見ながら前橋と桐生を結んでいます。

この上毛(じょうもう)鉄道は
単線で、通勤時間帯は3−4両連
結となりますが、昼間は2両(1
両?)で走るのどかな電車です。
←大胡(おおご)駅
(前橋と桐生の中間駅)
私は高校時代の3年間、大胡から桐生までこの電車で通いました。
大胡駅と桐生の駅(西桐生駅)は、現在も開業当時の駅舎が使われているよ
うです。西桐生駅では駅員さんが二人とも美形の女性でした。駅長さん(と
思しき人)は若い頃の松坂慶子さんを思い起こさせるような美人で、私は高
校時代が早すぎたことを悔やみました。
←西桐生駅
↓
9.桑畑
蚕は桑の葉を食べて成長します。
養蚕が盛んだった頃、養蚕農家の周囲には桑畑が広がっていました。桑は大
木に成長しますが、養蚕に使うのは直径2センチ足らず、高さ3メートル位
の細い木に根元から先端までついた葉を使います。
桑は成長速度が速く、根元から切るとすぐに細い木が数本立ち上がります。
春蚕(はるご)用には桑の木を根元から切って家に運び、落とした葉を蚕に
与えます。夏蚕(なつご)、秋蚕(あきご)には畑で葉だけを摘んできます。
初夏には沢山の桑の実が付き、紫色に熟した甘い実を子供たちが手や顔を
汚しながら喜んで食べたものでした。桑の若葉の天ぷらも美味しいものです。
天然記念物に指定されている薄根(うすね)の大クワ(沼田市)は、推定
樹齢が1,500年だそうです。幹まわりはおよそ8メートルあるそうです。
←*薄根の大クワ
↓富岡製糸場正門脇の桑
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富岡製糸場で近くに桑畑がないか尋ねましたが、ガイドさんも事務所の方
も首を傾げるだけでした。赤城山麓の実家に帰ったところ、100メートル
程離れた所に桑畑が少し残っているのが目に入りました。
蚕糸記念館前には多種類の桑が植えてありました。
栽培し易く、蚕の生育に適した桑の開発が研究されてきたのでしょう。
←僅かに残った桑畑(後方は赤城山)
↓桑の木の見本(蚕糸記念館)
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海外旅行で大変印象的だったことがあります。
デトロイト西隣のディアボーン市に野外博物館がありました。そこに大きな
桑の木が一本立っており、その前に「1810年、アメリカで最初の製糸工
場がコネチカット州に作られた」旨の表示板がありました。
さらに、その近くの建物内では、繭を湯に浮かべて糸繰りをする様子が実演
されていました(2002年夏)。かつてはアメリカでも養蚕が行われてい
た、ということに驚きました。
トルコでは、中庭から伸びた桑の木が、2階客室の窓を覆っているホテル
に泊まったことがあります(2010年)。
←製糸工場の説明板(アメリカ)
↓客室前に伸びた桑の木(トルコ)
10.絹産業を支えた技術
ここまでは、私が訪問した施設を中心に述べてきました。
ここで絹産業を支えた技術開発について若干触れてみます。膨大な数の人々
が携わってきた絹産業は、あまり脚光を浴びない貴重な技術開発や工夫に支
えられていたようです。
1)養蚕回数の拡大
富岡製糸場で巨大な繭倉庫を造ったのは、当時は繭が年1回しか採れな
かったためだ、と記しました。蚕種(さんしゅ:蚕の卵)は冬から春に移
行する一定の温度変化でのみ孵化するそうです。そこで、人工的に温度変
化を作り出せれば年に複数回の養蚕が可能になる、と考えられました。そ
のため、年間を通じて摂氏2−3度の風穴の中に蚕種を保管する方法が実
用化されました。
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荒船(あらふね)風穴(下仁田町)
と東谷(あずまや)風穴(中之条町)
が代表例で、荒船風穴には明治38年
(1905年)に日本最大の貯蔵所が
造られました。
蚕種紙(卵が産みつけられた紙)の
貯蔵能力は110万枚だったそうです。
←*荒船風穴
私の実家では、春蚕(はるご)、夏蚕(なつご)、秋蚕(あきご:初秋
蚕(しょしゅうさん)、晩秋蚕(ばんしゅうさん))と年4回養蚕をして
いました。
2)養蚕技能の向上
蚕の飼育には、桑の与え方、温度や湿度の調整などに注意が必要です。
日本では江戸時代から養蚕方法の研究が盛んに行われ、江戸時代に発行さ
れた養蚕指導書は100冊以上に上ったそうです。そのうち、フランスや
イタリアで日本の指導書が翻訳出版されたものがあった、ということは驚
きです。
(「絹の文化誌」篠原昭ほか 信濃毎日新聞社 1991年8月25日発行 より)
↓養蚕秘録 1848年(嘉永元年) ↓養蚕新説 1868年(明治元年)
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官営製糸工場に原料の繭を供給する役目を負った群馬県では、養蚕方法
の研究が盛んに行われ、明治初期には標準的な養蚕方法「清温育」が普及
しました。
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推進したのは「高山社蚕業学校」で、
分教場を60も構えたそうです。
「清温育」とは、暖かい日には風を入
れて蚕室を涼しくし、寒い日には蚕室
を温める、というものです。
そこで、屋根の上に空気抜きの窓を
設けている養蚕農家が見られます。
←*高山社発祥の地(藤岡市)
なお、高山社に先立って養蚕方法を考えた人もいました。
現・伊勢崎市境島村では、蚕室の換気をよくして自然に近い状態で飼う
「清涼育」が実践されていたようです。
興味深いことに、慶応元年(1865年)から10数年にわたり、島村
では大量の蚕種をイタリアに輸出したそうです。コモシルクで有名なコモ
地区はミラノの北にあります。10年近く前に旅行したとき、まだ養蚕を
しているのかを尋ねたところ、今は中国やタイなどからの輸入に頼ってい
る、ということでした。
3)蚕種の品質改良
養蚕業者にとって、病気に強く、飼育し易く、長い糸を吐く蚕は垂涎の
的です。家畜や農作物などと同様に、蚕も品種改良が繰り返されてきまし
た。明治末期から大正初期にかけて、国立原蚕種製造所の外山亀太郎とい
う人が、世界で初めて一代雑種を実用化し、蚕糸業の飛躍的な発展をもた
らしたそうです。(一代雑種:親と違った性質を持つが、その代限りで子
供には遺伝しない)
この技術は家畜や農作物などにも実用化され、現代にも受け継がれてい
る大発明です。ノーベル賞にも値する価値がある技術だと思います。
この発明は無形のソフトウエアであるためか、絹産業遺産群にはリスト
アップされていません。
11.おわりに
日本の養蚕は絶滅寸前ですが、意外なことに、最後の砦は東京の皇居なの
かも知れません。
皇后陛下美智子様は皇居内の紅葉山御養蚕所で毎年養蚕をしておられ、群
馬県からお世話係がお仕えしているそうです。年間250キロほどの繭は、
皇族が外遊されるときのお土産の絹織物などに使われるそうです。
かつて正倉院御物を復元したとき、御養蚕所で飼われた日本古来の小石丸
という蚕の細い糸が使われ、話題になったことがあります。
←上蔟(じょうぞく)の作業をされ
る美智子様
(産経ニュース2011年6月1日)
↓
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元気だった私の母は80歳過ぎの昭和63年(1988年)頃まで、隣村
の農家に嫁いだ姉は平成2年(1990年)まで養蚕をしたそうです。
春蚕、夏蚕、初秋蚕、晩秋蚕と年4回、米つくりの合間を縫って行うのは重
労働だったと思います。1回の養蚕にはおよそ1か月かかります。
姉に収入を聞いたところ、「繭は1キロ1,800円位だったと思うけど、
細かい数字は忘れた..」と言って笑っていました。後で計算してみたら、
桑畑5反の養蚕の方が水田5反の米よりも収入は多かったようです。女性中
心の作業でそれだけ収入があれば、かかあ天下が築けるのかも知れません。
(散策:2011年5月16日〜20日他)
(脱稿:2011年6月30日)
<参考図書>
・
日本のシルクロード―富岡製糸場と絹産業遺産群
佐滝剛弘 中公新書
・
絹の文化誌
篠原昭ほか 信濃毎日新聞社
<群馬県関連記事>
・
俵萠子美術館
・
草津・嬬恋 上州の旅
・
国定忠治の隠れ岩屋
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